昭和四十七年七月十一日 朝の御理解
x御理解第二節
「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてるという事がない。」
お互いに信心をさせて頂いておりますから、皆御神徳を頂いておるとゆう訳ではありません。又神徳を受けていっておるとゆう訳でもありません。信心をしておるから、かえって神様に借金になっていっておるとゆう事があるかもしれません。
そこで私共が思うんですけれども、先の世までも持って行かれ子孫迄も残ると仰せられる、ははあこれならばいよいよ持って行けるぞと、これならば成程子孫にも残るだろう、とゆうようなものが感じられるようにならなければ信心の有難さと言うか、信心の本当の喜びとゆうものはないと思うですねえ。これならば確かに持ってゆけるだろうと、これならば成程子孫にも残るだろう。だから信心をすれば誰でも受けられるのですけれども、お互いの信心しておるから徳を受けていきよるにちがいない、あの世にも持って行けるだろう、この世にも残しておけるようなお徳を頂いておるだろうとゆうような事では信心に一向楽しみがない。その辺のところがね、ハッキリして参りませんと、本当に徳を積んいくとゆう事の信心が出来ません。
だから、成程信心しておかげを受けるとゆう事を、成程おかげを受けなければなりませんけれども、おかげの内容にです。四、五日前、或る方が親先生、ここに四回の月次祭がありますが、四回の月次祭たんびに菊正宗のお供えをさせて頂きたいと思う、と、こう言う。皆さんもご承知のように月次祭たんびにお供えを頂いとります。あれだけは、もう絶対ここでは御神酒に使うのですから、飲むのには使わない。もう絶対御神酒として頂く。ですから現在、御神酒だけが月に六本ですか、少しずつ頂くのが、それだけは要るのです、やはり。しかも私は、もうここでお供えを頂く、一番最高の物が御神酒でなからなならんと。まあ皆が御神酒ですけどね、神様にお供えしたんですから。けれどもやはり御神酒一杯で無い命が助かる。まあいろいろとおかげを蒙らせてもらいます程しの、例えば神様の思いが御神酒にはこめられておると思います。それにどうでも菊正宗を一本ずつお供えさせて頂きたい。だから昨日も一本多かったでしょう、菊正宗が。もうこれは、或る方が必ずお供えなさるけれども、その人が言うのにも、私も菊正宗のお供えをさせて頂きたいと、こう言うのです。それで私は、それを本当に有難いと思うたんです。ここで、それ程沢山な御神酒を頂く人が出来るとゆう事は、助かる人が多くなることなんですから。
御神米を頂く。もう本当におかげを頂く。私共が子供の時から、もう御神酒、御神米だけで薬を頂いた事がないとゆう程しにおかげを頂いておる。合楽の皆さんは、皆そうでございましょう。ここで五年も十年も信心されたとゆう方なら、皆御神酒御神米のあらたかさとゆうものは知ってるはずなんです。だからそうゆう意味でですね、おかげを受ける。
私はこれはね、あの世に持ってゆけるものじゃないと思う。お取次を頂いてお願いをする。成程本当に神様のおかげというものは不思議な事である。神様がこのような事に迄お働き下さるんだとゆうお取次を頂いて、例えばお願いをしておかげを受ける。私はそうゆうおかげを頂いたのではです、そうゆうおかげは持って行けないと思うね、あの世にも。私は思いますのにね、例えばこの教典に、まあ此の一冊が金光教の教典とゆう事になります。最近は、新たな御理解が少しばかり発表されました。けれどもまあこの教典が金光教の御教えだと言われておりますがね。結局持って行けるものはこれだと思います。御教えをどれだけ自分のものにしたかとゆう事なんですよ、持って行けるのは。それはもう熱心な良い信心が出来たから、商売も大繁盛しよる。さあ奇跡的なおかげを表していきよると言うてもです、そうゆうおかげではあの世に持って行けるとゆうものは生まれてこない。自分の心の中に感じられない。御神酒さんでおかげを受けたとか、只お取次を頂いて、まあ難儀な問題が解決したとか、病気が治ったとか、金銭のお繰り合わせを頂いた、そうゆうおかげを頂いていくとゆう、そうゆうおかげではあの世に持って行かれない。持って行けるのは、私共が教祖様の御教えを、どれ程に、言うならば消化し、こなさしてもらい、そして成程教祖様は決してオーバーな教え方はなさっていない、嘘はおっしゃっていない、成程教祖様がおっしゃる通りのおかげが受けられるんだと。教祖の御教えを本気で頂いて行じて身に付けて、それが私は、あの世にも持ってゆけるんだ。これならば子孫の者にでも残してゆけるんだと、ゆう事が言えるんだと思います。只金光様の御信心を頂いて、そのあらたかさと言うか、おかげを受けられるとゆう事だけでは御神徳を受けるとゆう事にはならない。しかもみてるとゆう事がない。もう限りなく受けてゆかれる、限りなく頂いてゆけれる。
そこでそんならおかげの種類と言うかね、どうゆうおかげなら子孫迄も残しておけ、あの世迄持って行けるとゆうようなおかげになるかと言うと、そんならこの教祖の御教えをどれだけ自分のものにしたか、血に肉にしたかとゆう事だと、こう申しましたが、それを今度は煎じ詰めて参りますと、この教典の全てがその為にあると言うのが和賀心だと。生神金光大神天地金乃神一心に願えおかげは和賀心にあり、一心に願うたからと言うて和賀心が頂けるのじゃない。一心に願うて教えを行じなければならない。一心に願うとゆう事は、そうゆう事。一心に願うて教えを行じさせてもらうとゆう事。そこに初めて頂けるのが、これが和の心であろうか、賀の心であろうかとゆう風に感じられるおかげ。まあ自分の心の中がどのような場合であっても賀び和らぐ心とゆうものがです、段々本当なものになってくる。どんな場合であっても、和の心をもって受けられる稽古が出来て完璧とゆう事は中々出来ませんけれども、そこに何時も焦点がおかれてある。これをいかに和の心で受けるか賀びの心で受けるかと。此の方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと、そうゆう喜びから生まれてくるところのおかげ。和賀心から生まれてくるところのおかげ。そうゆうおかげを頂いて初めて成程、この調子でいけば御神徳が受けられるなあとゆう楽しみが生まれてくるんじゃないでしょうか。いやこの調子でいけば、これはあの世にも持ってゆけるぞ、これは子孫にも確かに残るだろうとゆうおかげが頂けるとこう思う。
教祖様の御信心を頂いた人は、どれだけ沢山あるか分かりません。けれども信心は沢山な人がしたでしょうけれども、そんなら御神徳を受けて、あの世にも持って行かれ子孫にも残される程しのお徳を受けたとゆう人は、もう、ごく少ない。だから信心すれば誰でも受ける事が出来ると、只拝みよります、言わば御神酒さんがよう効くとか、御神米で助かったとか、只困った問題をお取次頂いて、お願いをさせて頂いておかげを頂いていきよる。それが例えば有難いことに間違いがないけれども、それが有難いだけで、のおかげは、あの世に持って行ける事じゃない。子孫にもそれでは残らない。お取次を頂いて、そしていよいよ教えが血に肉にならせてもらう。言うなら和賀心とゆうものが段々本当なものになっていくとゆう喜び楽しみとゆうものが出来てこなければ死生の安心と申しますかねえ、あの世にも御神徳が持って行けれる、御神徳さえ持って行きゃあ、まあ仏教的に言うなら極楽行き間違いないと、自分で感じられるところに、私は死生の安心とゆうものは生まれてくると思う。こうゆうおろよい?心、こうゆう汚い心、こうゆう浅ましい心があったんでは、それこそ先が恐ろしいと、例えば思わんでも心の底に、それを思うておる。それでは本当のおかげの世界には行けない。私共が信心させてもろうて、これはどうでもひとつおかげの世界を築いていき、しかもおかげの世界に住まわせて頂くところの信心を頂かなければいけん。それは只普通で言う、ご利益の世界とゆうものではなくて、おかげの世界とゆうのは、どこ迄も自分の心が助かっておるとゆう世界、自分の心が何時も安らぎである。そうゆう心に、所謂みてるとゆう事がないとゆう程しの限りないおかげが約束される。そうゆうおかげが段々頂けてくるようになって初めてです、死生の安心も生まれてくるだろう、又は、私は今度病気で休ませて頂いてから思ったんですけれどもね、本当にあの死ぬる時には、こんなにきついだろうかとゆうようなところを、ほんなわずかな間でしたけれども通らせて頂いた。本当に、あの、皆がお国替えのおかげを頂いても、私はお礼を申し上げる、悲しまんでもすむおかげを頂いとる。そんなら自分の死ぬる時にも悲しまんですむ、自分の死ぬる時にも、やはり神様に有難うございます、有難うございますとお礼が言うて死んで行けなければ、これは本当なものじゃないなと思うた。自分の肉親の者を亡くしてもです、本当に神様にお礼ばっかり申し上げとります、と言うて、そんなら今度はお前はお国替えだぞと言われて、まあちょいと待って下さいと言う事ではね、それが不安で不安でとゆうような事では、これはおかしい。人ごとだから平気でおれたんだとゆう事になる。それを、私自分で確かめるような気持ちでした。本当に思いもかけない若い人が、そんならコロッと亡くなる。一生懸命信心しとって、こうゆう事になったんだから神様の働きに間違いはない。まあそれは亡くする事ですから、それこそ愛別離苦の苦しみとゆうのはありますけれども、苦しみ悲しみ以上の御神意を思うたらお礼を申し上げねばおられないとゆう気持ちが段々開けてきたなと自分で思う。
そんなら私自身がお国替えをする時にです、もうしばらく待って下さいとゆうような事であったり、お礼が言えないような事であるとするなら、これは本当なもんじゃない。私はそれをやや感じたですねえ。これは人が死んだっちゃ、あんまり悲しまんですむようなおかげ頂いて、いやむしろお礼を言うような気持ちでおるが、成程自分が死んでゆく時も、この調子ならお礼が言えるように、いよいよなるだろうとゆう感じが致しました。
あるお婆さんが、もう年寄は死なにゃ死なにゃ、もう早うお迎えを頂かにゃこてでけんと、もう口癖んごと言いござった。それでね、お寺さんに参って来た時、お坊さんがお堂の向こうからね、「どこどこのばば、よう参って来た。何月何日の何時には、いよいよお迎えが来るから覚悟しておけ」と言うて、言わっしゃった。そしたらもうびっくりしてしもうてですねえ、「あら冗談ですよ」と、言うて逃げたと。だから私共でも、どうです、成程死にたいとゆう事ではない。けれどもいよいよその時にです、お礼が言えれるような心の状態を頂く事こそが神徳を受けていく事じゃないかと、こう思うのです。この世でこれ程しの神様の御信用を頂いて、これ程しのおかげを頂いておるのであるから、あの世でも頂き続ける事が出来るんだとゆう確信。ですからどうでもひとつ本気で教えを行じての信心。それは成程ね、お願いをするお参りをする。そしておかげを受ける。それは確かに事実なんです。おかげを受ける。だからそれだけのおかげでしまえたら、それは御神酒さんを頂いて助かったとゆう事と同じ事ですから、これはあの世に持って行けるものではない。只おかげを受けるから、只一生懸命参ったとゆうだけの事。お参りをさせて頂いて教えを頂いて、その教えが身に付いて来る事が有難い。
そこでです、例えば昨日あたりの御理解、上から下へ水を流すのは容易いがとゆう御理解。私が、上から下へ水を流すのはみやすいけれど、下から上へ水を流すのは難しい。しかも凡夫の凡人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇が要る。神のおかげで開かせてもらうのぞと。神のおかげで開かせてもらうとゆうおかげ。それは辛抱してゆくうちに徳が受けられる。そこで昨日申しましたように、そんなら信心をさせて頂く者の姿勢とゆうものがです、本気での姿勢とゆうものを作っておかなければならない。お願いしたけれどおかげ頂かんからとか、お参りしたけれども、例えば親先生が自分の気にいらん事を言うたからと、まあいろいろな問題がございましょう、辛抱していく間に。けれどもそんな事なんか、どんな事があっても、やはり貫かせて頂くとゆう姿勢を私共が作ってからの信心がなされなければならない。そうゆう信心をすれば誰でもお徳が受けられるとゆう事ではないかと思う。一時は難しい事があっても、辛抱していく間には徳が受けられるんですから、私はこの信心辛抱の徳とゆうものがです、自分の心に感じられ、それがおかげになって、しかも限りないおかげになって表れてくる。そうゆう日々の所謂確かめと言うかね、それが積み重ねられていって、所謂本当の意味に於いての御神徳とゆう事になり、これならあの世に持って行けるぞ、子孫にも残しておけるぞ、とゆう確信も出来、言うなら死生の安心も又、同じく死に際にもお願いと同時にお礼を申し上げれるところの境地が開けてくると思うのです。
もう教祖様の、この教典の全てがね、御神徳を受ける事の為にあるような御教えばっかりです。御神徳を受けていく為に、しかもそんならそれをしぼると結局あらゆる角度から和賀心にならせて頂く道を説いておられるとゆう事に極言出来れると思うのです。それ程しのものを、私共は頂いているのですから、いよいよ和賀心を目指さなければならない。いよいよ御神徳を受けていく事の信心が有難うなってくるとゆうのでなかにゃならん、とゆう事になるのです。
段々と信心をさせて頂いて、神様のおかげを分かる。だからそのおかげが分かるとゆうだけではなくて、御神訓の中に「神の恵みを人知らず。親の心を子知らず」とある。お互いが信心させて頂いて、お恵み、神の恵み、神のおかげを受けるとゆう事は分かる。けれども親の心子知らず、で神様の心を分かろうとしない、神様の心が分かるところから、神様の心に言うならば親の心に添わなければおられない。親の心が分かれば、親に喜んでもらいたいとゆう心は、いよいよ募ってくるんです。今日私はそんな事を申し上げた事になります。お恵みが分かっただけではいけない。おかげが分かっただけではいけない。親の心が分からなければいけない。神様の心が分からなければいけない。神様の心が分るところからです、この教えの全てが、言うなら神様のお心なんですから、このお心を奉じていく、頂いていくとゆうところから生まれてくるのが和賀心。そこに頂けるところのお恵みであって、本当の意味に於いてのお恵みである。親の心が分かって、受けるところのおかげ、神様の心が分かって受けてゆけるところのおかげ。そうゆうおかげであるならば、必ずあの世にも持って行け、この世にも残しておける。そして今日今日がです、所謂今月今日をです、本当に限りのないお恵みに浸らせて頂いて、日々いよいよ有難い有難いが募ってくる幸せな毎日とゆう事になってくるのです。
「神の恵みを人知らず、親の心を子知らず」信心すれば神の恵みは分かる。おかげは分かる。けれども親の心が分からんでは何時までたっても本当の信心は出来ない。神様の心が分からなければ神様の心に添い奉るとゆう信心が出来ない。まずは神様のお心を分からせてもらわねば。本当に分からせて頂いたら、それはね、添わなければおられないのです。実は、そこから生まれてくるところの神様の御信用が御神徳、それをあの世にも持って行け、子孫にも残しておける程しのおかげにしていきたいと思いますね。どうぞ。